島宿真里の醤油懐石 〜醤の郷を訪ねて〜
小豆島は約400年の歴史を持つ醤油の一大産地です。最盛期の明治時代には400軒ほどの醤油醸造所がありましたが、現在は20軒ほどに減っています。しかし、多くの醸造所が安定して大量生産できるステンレス等のタンクを使うようになっている中、ここ小豆島では伝統的な木桶仕込みの醤油を作っている蔵が多く残っています。日本の醤油全体で、木桶仕込みのものは1%以下にまで減っていますが、その1%の中の3割程度が小豆島で生産されています。
醤の郷と呼ばれる地域には醤油醸造所が軒を連ねており、歩いているとあちこちから醤油の香りが漂ってきます。またこの地域では、醸造所の壁や屋根、さらにガードレールや看板などが黒くなっていますが、これは蔵に住みついた醤油を作り出す菌の影響だそうです。ここ醤の郷では、あちこちに醤油の菌が漂う醸しワールドになっています。
この醤の郷にある「島宿真里」では、醤油の食べ比べができる醤油会席を提供しています。二段仕込みの濃厚な醤油や、生揚げと呼ばれる火入れをしていない醤油(殺菌処理されていないので市販はできない)を蔵元から取り寄せています。さらに、オリーブと少量の出汁とともに炊き上げたオリーブご飯には食べる直前に小豆島産のエキストラ・バージン・オリーブオイルを掛けていただきます。他にも醤油の諸味(大豆や小麦を発酵させて醤油を絞る前の状態)を様々な調味料として使用し、小豆島・瀬戸内の食材と合わせています。まさに、ここでしか食べられない料理に仕上げられていて、島の魅力を伝えたいというオーナーの心意気が伝わってくる素晴らしい宿でした。
鮎の名店「比良山荘」の愉悦
「やはり鮎は、普通の塩焼きにして、うっかり食うと火傷するような熱い奴をガブッとやるのが香ばしくて最上である。」(北大路魯山人)
滋賀にある鮎料理の名店「比良山荘」に行ってきた。
京都から若狭に抜ける鯖街道沿いの山奥にひっそりと佇む店である。
恥ずかしながら、滋賀に30年以上住んでいて初めての来店だった。店名に「山荘」と付いていることからもわかるように、元々は比良山に登る登山客をもてなすための宿であった。次第に鮎料理を出すようになり、特に現三代目当主により熊、猪、鰻、鯉、スッポンといった滋賀の新鮮な食材をシンプルに提供するスタイルが確立された。いつも登山をするときにこの店の前を通り過ぎていて、その凛とした佇まいからいつか食事をしてみたいと思っていたが、ようやく叶った。この時期は子持ち鮎が主となる。
好みのコーヒーの見つけ方 〜発酵方法による味の違い〜
今日のコーヒー
Today's coffee
国名: ブラジル(Brazil)
地域: モジアナ地区(Mojiana)
品種: カトゥアイ(Catuai)
精製: ナチュラル(Natural)
コーヒーを飲むときに豆の原産国(ケニアやコロンビアなど)で選ぶことが多いと思いますが、品種や精製方法で選ぶことはまだまだ少ないでしょう。しかし、自分の好みのコーヒーを見つける上で、原産国は参考にはなりますが、風味を特定するには十分ではありません。
例えば美味しいお米を食べたいと思ったとき、「日本米」という情報しかなかったとしたら、それが美味しいお米かどうか判断できないでしょう。ササニシキなのかコシヒカリなのかといった品種や、白米なのか玄米なのかといった精製に関する情報があって初めて味の予測が立つというものです。
品種も重要な要素になります。しかし、同じ品種であっても植える場所の土壌や気候、標高などによってかなり風味に違いが出てきます。いわゆるテロワールというやつです。品種とテロワールの組み合わせは多様で、それだけコーヒーの風味にも多様な可能性をもたらします。
一方、精製というのは上手・下手はあるものの、やり方はほぼ固定されています。そして、それぞれの精製方法によって、どういう風味を引き出すかという方向性もかなり明確です。
精製は大きく分けると3種類あります。
ナチュラル: コーヒーの実を収穫後に果肉を付けた状態で乾燥させる。
パルプド・ナチュラル: 外皮と果肉を取り除き乾燥させる。
ウォッシュド: 外皮と果肉を取り除き、水槽に入れて発酵させることで果肉を完全に取り除いた後に乾燥させる。
ウォッシュドは大量の水を必要とするため場所を選ぶし費用も掛かります。しかし、果肉を完全に取り除くことで、コーヒー豆をカビや腐敗から守るとともに、抽出した時にとてもクリアな風味を生み出します。それに対し、ナチュラルは最もシンプルな精製方法で最も古くから行われてきました。しかし果肉がついたままでムラなく乾燥させるまでには手間も掛かるし、カビや腐敗が生じやすくなります。それでも、果肉を付けた状態で乾燥させることで、コーヒー豆にフルーツのような甘みやコクを与えることができ、強いアフターテイストを感じられる一杯になります。お茶でいうなら、まるで玉露のような風味になります。
丁寧にナチュラル精製されたコーヒーは他の方法で精製されたコーヒーとはかなり風味が異なり、コーヒーの概念を覆すかもしれません。近年はスペシャリティコーヒーの世界においてナチュラルが見直されてきています。しかし、ナチュラル精製は生産者の注意と手間を必要としリスクが高いことから、一部のコーヒー関係者はナチュラル精製を広めることで品質の良い豆を台無しにするリスクを高めると警鐘を鳴らしてもいます。
精製は品種と違って、コーヒーに一定の風味の方向性をもたらすと述べましたが、それも生産者次第ということになります。例え品種や精製に関する情報がわかっても、なおそのコーヒー豆がどのような生産者によって作られたかで風味は大きく変わります。
だからこそ、コーヒー選びは難しいですが、探し出す大きな楽しみがあるとも言えます。
実際にコーヒー豆を買うときにコーヒー農家から直接買う人はほとんどいないでしょう。信頼できるショップから購入するというのが現実的な方法になると思いますが、それでも消費者として品種や精製に関する知識を持っていることは、自分の好みのコーヒーに出会う大きな助けになるはずです。
スペシャリティコーヒーの可能性についての考察 〜ルワンダ ムホンド・ウォッシング・ステーションを訪ねて〜
サードウェーブとスペシャリティコーヒー
コーヒーはとても身近な飲み物でありながら、コーヒー豆がどのように作られているか、そしてそれがどのように日本に運ばれて一杯のコーヒーになっていくか、実はあまり知られていないのではないでしょうか。最近は、サードウェーブと呼ばれるコーヒームーブメントが広がりつつあります。ファーストウェーブが、インスタントコーヒーや缶コーヒーの発明によりコーヒーが身近なものになった現象を指し、セカンドウェーブはスターバックスやタリーズの登場によって広まったエスプレッソ系コーヒーなどのコーヒーの楽しみ方の多様化を指します。そして、サードウェーブは豆をブレンドせずに単一品種として、一杯一杯手作りで淹れるというように、よりコーヒーのポテンシャルを引き出し、嗜好品として楽しもうという現象を指します。サードウェーブの動きの中で、コーヒーは単なるコモディティ(日用品としてその品質や個性などの差異が意識されないもの)であることを止め、ワインと同じように嗜好品になりつつあります。
サードウェーブによりコーヒー豆の個性(焙煎前の生豆そのものの品質や風味)が注目されるようになると、コーヒーは果実であり農作物である事がより強く意識されるようになりました。セカンドウェーブまでは各産地の豆がブレンドされることも多く、コーヒー豆の産地、品種、生育方法、精製方法などはあまり意識されてきませんでした。しかし、豆の個性を追い求める上で、コーヒーの農作物としての側面に注目する必要性がある事が理解されていきました。適切な土地で、適切な品種を、適切な栽培方法で育て、適切に精製することで、コーヒー豆はコモディティ商品からスペシャリティコーヒーに化けることができるようになります。
サードウェーブの動きの中で、コーヒーが作られる過程を知れば、その味わい方も変わるかもしれません。そしてもう一つ強調しなければならない点として、コーヒーは多くの人々に愛される飲料というだけでなく、途上国で生産されて先進国で消費される関係から生まれる南北問題を如実に示すものでもあるということです。今回、ルワンダのコーヒー生産の現場を見ることで、コーヒーの持つ可能性と、問題点について考えてみました。
コーヒー豆はNY先物市場で値段が決まる
ルワンダは、コーヒー豆の生産にとても適した土地にあります。良いコーヒーが育つには、寒暖の差が激しく適度に雨量のある土地であることが条件になります。そのため、ほとんどのコーヒー豆は赤道直下の国の標高の高い場所で育てられています。ルワンダはコーヒーの生産にとても適した土地でありながら、国際的にはほとんど認知されていませんでした。それは、コーヒーを生産している農家のほとんどは家族経営の小規模農家であり、生産量が少ないことと、ブランド化がされていないことが主な理由です。一方で、ルワンダの多くの人がコーヒー生産で生計を立てており、農家の生計向上、貧困削減という観点からも、コーヒーの価値向上は重要な問題となっています。
先ほど、コーヒーはコモディティであると言いましたが、コーヒー豆の価格は石油と同じようにニューヨーク先物市場で決定されています。農家により生産されたコーヒーは農協などを通じて先進国のバイヤーに買われていきます。残念ながら、ルワンダ国内ではコーヒーはほとんど消費されていません。バイヤーは、その購買力を背景に、ニューヨーク先物市場の価格に合わせて購入価格を決定します。第一の問題として、ニューヨーク先物市場の価格が低いということが挙げられます。これは、ブラジルのような広大な土地を使った大量生産を行う国から出荷される豆の生産コストと収穫量が、世界全体のコーヒー豆の価格を決定するという構造上の問題から生じています。ルワンダのように、山間部で小規模農家によって生産される豆の生産コストはブラジルに比べて高くなってしまうため、利益を出すことが難しくなります。しかも、生産量が少ないため、価格形成に影響を及ぼすことができません。これが第二の問題で、価格決定権が農家に無いという問題が挙げられます。
一杯のコーヒーの味を決定する要素は、豆の品質及び管理が7割、焙煎が2割、抽出が1割と言われています。しかし、実際には先進国に輸出され焙煎される過程で、コーヒーの価格は何十倍にもなっています。つまり、コーヒーの味を決定する豆の品質に適切な価値が置かれていないということになります。こうしたコモディティ商品の問題を解決するには、品質向上によるブランド化が必要になります。
品質向上とブランド化の重要性
スペシャリティコーヒーの取り組み
こうしたブランド化の取り組みの一つに、スペシャルティコーヒーという差別化が挙げられます。スペシャルティコーヒーというのは、当たり前ですが"スペシャル"なコーヒーのことです。添付の図表を見ていただくと、スペシャルティコーヒーというのはコーヒーの中でも最高品質のものであることがわかると思います。
日本でスペシャルティコーヒーの取り組みが始まったのは比較的最近ですが、それ以前から良質のコーヒー豆を輸入し消費する文化がありました。「ブルーマウンテン」、「キリマンジャロ」、「ブラジル」、「モカ」といった名前はコーヒーのブランドとして認知されていると思います。しかし、それらは同じブランドでも意味合いが異なります。「ブルーマウンテン」と「キリマンジャロ」はそれぞれジャマイカとタンザニアにある山の名前です。「ブラジル」は国の名前です。「モカ」はイエメンにある港の名前です。これはお米に例えてみると、「ブルーマウンテン」と「キリマンジャロ」は産地の名前なので、「秋田県産」とか「新潟県産」という意味合いになります。「ブラジル」は国の名前なので、「国産」というような意味合いになります。こうしてみると、コーヒーのブランドというのはけっこうアバウトなものだとわかります。コーヒー豆を出荷する国や産地は独自で豆の等級をランク付けしています。「ブルーマウンテン」であれば、豆のサイズによってさらにNo.1〜No.3に分けられます。「ブラジル」であれば、豆のサイズ、欠点豆の少なさ、専門官によるテイスティングで分けられています。一方で、「モカ」は統一された基準がなく、複数の等級が存在します。つまり、「ブルーマウンテンNo.1」とあれば、ブルーマウンテンの最高級品であることを示しています。お米で言えば、「新潟県産コシヒカリ一等米特A」ということになります。
では、スペシャルティコーヒーとは「ブルーマウンテンNo.1」のことかといえば、そうではありません。「ブルーマウンテンNo.1」は、図表でいえば「プレミアムコーヒー」のトップレベルのコーヒー豆のことです。スペシャルティコーヒーとは、その上をいく品質の豆を指します。お米で例えると、新潟県南魚沼で素晴らしい栽培技術を持つAさんが特別に水はけの良い区画で栽培したお米、ということになります。ブルーマウンテンというエリアはコーヒー栽培に適していますが、その中でも場所によって陽当たりや気温差があり、それが品質に影響を及ぼします。このように、気候、土地、技術、そして生産者の品質に対する熱意とが合わさってスペシャルティコーヒーが生み出されます。通常こうしたスペシャルティコーヒーはオークションで落札され、一般に流通することはありません。そして当然ながら価格も高くなり、生産者の収入も増えます。
フェアトレードの問題点
コーヒーのブランド化の取り組みとしては、スペシャルティコーヒー以外にもフェアトレードという考え方があります。これは、生産者に対して適正な価格を支払いコーヒー豆を購入することで生計向上を果たそうとする取り組みです。スペシャルティコーヒーがその品質に訴えかけるのと違い、フェアトレードは人々の倫理に訴えます。先進国が途上国を搾取しているために、途上国の生産者は苦しんでいる。それは倫理的におかしいという考え方です。フェアトレードには、確かに生産者の所得を増やす効果がありますが、倫理に訴えるという方法に対しては疑問を感じています。援助にしてもそうですが、人々の倫理に訴えることには限界があるように思います。それは、人はやはり自己利益を追求するものですし、少しでも美味しくて安いコーヒーを求めると思うからです。ここにフェアトレードを広めていく上での限界があるのではないでしょうか。それよりも、生産者と消費者双方の理解を高めて、コーヒー業界全体のクオリティを向上させていくというスペシャルティコーヒーの取り組みの方が持続性とインパクトを持っているのではないかと感じています。
カップ・オブ・エクセレンス
ルワンダでもスペシャルティコーヒーのための取り組みが行われています。その一つが、カップ・オブ・エクセレンスというコンテストの開催です。このコンテストは国連のプロジェクトから始まったもので、最初はブラジルで開催され、その後各国へ広がっていきました。コンテストでは世界中から集まったカッパーと呼ばれるコーヒーの知識を持った人々がブラインドテストにより点数を付けていきます。高得点を付けたコーヒー豆はスペシャルティコーヒーとして認知され、その生産者もバイヤーから注目されるようになります。それにより、そのコーヒー豆は、コモディティではなくブランドとして扱われるようになり、生産者が価格決定権及び交渉力を持つことができるようになります。
今回のルワンダ旅行では、ムホンド・コーヒー のウォッシングステーション(コーヒー豆の洗浄、発酵、乾燥を行い生豆にする場所)と農園を見学させてもらいました。ムホンド・コーヒー は2014年のカップ・オブ・エクセレンスで91点を獲得し、第1位になりました。また2015年にも 89.89点を獲得し第3位になっている、素晴らしいステーションです。そこで農家に対する技術指導やブランド向上を担当するウェラーズさんとお話をさせてもらいました。ウェラーズさんは、農家自身がコーヒー豆の品質について理解していないことが問題だと言っていました。
実際、ルワンダでは紅茶が主流でコーヒーは国内ではほとんど消費されていません。きちんとしたコーヒーを飲んだことのない農家も多いのです。それでは、どうすれば美味しいコーヒー豆ができるのかわからないはずです。ウェラーズさんは、どのように栽培すれば品質の良いコーヒー豆ができるのかについて農家に対して技術指導を行いながら品質向上に努めています。
生産者と消費者の正のサイクル
コーヒーにしてもチョコレートにしても、その原材料を生産する地と消費する地が大きく離れていることには問題があると言えます。農家は自分たちが消費しないため、何が高品質なコーヒーかわかりません。一方の消費者も、コーヒー豆がどのように作られるのか、どのように流通するのかを理解していないため、「ブルーマウンテン」や「キリマンジャロ」といったブランド名に頼ることになります。ブランドばかりが前面に出ると、その背後にある品質が疎かにされる場合があります。
例えば、「ブルーマウンテン」はもともと品質の良い豆で有名で、かつてはそこで生産される9割の豆を日本が輸入していました。1988年には、ハリケーンがジャマイカを襲い多くのコーヒー農園が被害にあい、コーヒー豆の生産が激減するという事件がありました。それでもバブル期の日本からの高級豆の需要は多く、ジャマイカ政府はコーヒー豆の品質を下げて出荷量を確保しました。これはジャマイカ側だけの問題ではなく、「ブルーマウンテン」というブランドを好む日本の商社や消費者にも問題があったと言えるでしょう。そうした品質の低い「ブルーマウンテン」が日本で流通し、缶コーヒーでもブルーマウンテンを飲むことができました。そして多くの消費者はきっと、「ブルーマウンテンなんてこんなものか」、と思ったのではないでしょうか。
品質の良いものを生み出すには、技術と熱意を持った生産者が必要ですが、それと同時に、その品質を理解し適切に評価する消費者も必要とします。生産地と消費地が近ければ、そこには評価のフィードバックと品質の改善が行われやすいですが、地理的に遠く離れているため、コーヒーの場合はそうしたサイクルが行われにくい構造があります。コーヒーに対する意識が低いことで損をするのは、消費者自身なのです。消費者が美味しいコーヒーが何なのか知らなければ、売り手は品質よりもブランドや価格にばかりこだわるようになり、消費者は美味しいコーヒーを飲む機会を失います。スペシャルティコーヒーは、生産者と消費者を結びつける一つの取り組みでもあります。そして、コーヒーを適切に評価する消費者と、品質を理解する生産者を生み出し、そこに正のサイクルを生み出す取り組みでもあります。こうした観点から、近年はルワンダやウガンダでも街中にカフェが増えてコーヒーを楽しむ消費者が増えていることに期待をしています。コーヒーを生産する国の国内で消費されるようになれば、生産者と消費者の間の正のサイクルを強化することができるからです。
ブランドというのは、人々に消費することの快感を与えるとともに、選択の手間を省かせてもくれます。しかし、そのブランドの神話が、その物が持つ奥深さや本質を理解することを妨げる場合もあります。そのような、ブランドに過度に依存した関係から生み出される生産者と消費者の関係はどちらにとっても幸せなものではなさそうです。スペシャルティコーヒーが、それもまた一つのブランドになり、スペシャルティコーヒーであれば高くて良いものだと短絡的に理解されてしまい、消費者の理解を妨げてしまう可能性もある諸刃の剣でもあることは肝に銘じておく必要があるでしょう。それでも、スペシャルティコーヒーの取り組みが、より良い生産者と消費者の関係を生み出し、コーヒーの世界が皆にとって幸せなものになることを願っています。
マダガスカル産カカオを巡る旅 〜アケッソン農園〜
マダガスカル北部のサンビラーノ渓谷は高品質のカカオを生産する土地として、高い評価を受けています。マダガスカルのカカオ生産量は年間約6,000トン程度で、世界全体の生産量(約500万トン)の0.1%程度ですが、高品質のクリオロ種やトリニタリオ種を中心に栽培しているため、多くのショコラティエやビーン・トゥ・バーのメーカーから引き合いを受けています。
今回は、サンビラーノ地区で代々カカオ栽培を続けているベルティル・アケッソン(Bertil Akesson)氏の農園を見学させてもらいました。アケッソン農園は、アラン・デュカス、フランソワ・プラリュ、ドモーリと言った素晴らしいショコラティエと取引をしていることからも、その品質の高さがわかります。Akessonのチョコレートは、チョコレートソムリエである札谷加奈子さんのサイトでも購入することができます。
農園の中に足を踏み入れると、ひんやりとした、爽やかな土の香りが漂ってきます。カカオもコーヒーと同じく直射日光を嫌うため、シェードツリーと呼ばれる木々をカカオの木の間に植えて陰を作り出しています。カカオポッドと呼ばれる実を割ると、中には白い繊維を纏った種が入っています。生のカカオを口にしてみると、甘くライチのような味わいがします。マダガスカルのカカオは、ラズベリーのような爽やかな酸味が特徴です。カカオを生産する国はたくさんありますが、このような酸味を持つカカオは貴重なので、多くのメーカーがマダガスカル産チョコレートをラインナップに加えようとするのも頷けます。
カカオの風味は、品種(クリオロ、トリニタリオ、フォラステロなど)、テロワール(同じ品種でも栽培する場所が違うと風味も変わる)に加えて発酵が大きく関わってきます。チョコレートが発酵食品であることは、あまり知られていないかもしれませんが、カカオ豆は発酵という過程を経ることで豊かな風味が生まれます。しかし、適切な発酵方法を知らないカカオ生産者が多く、風味のないカカオ豆が市場に出回っているのが現実です。
アケッソン農園の発酵をおこなうための部屋を見学させてもらいました。部屋に入った瞬間に、アルコールと酸味が混じり合った独特の香りが鼻をつきます。発酵中の豆を味見してみると、ビネガーのようなツンとした酸味が感じられます。ここから発酵と天日干しを行うことで、このツンとした酸味をまろやかな酸味に変えていきます。
木箱を三段に積み重ね、約6日間掛けて発酵を行います。発酵する際にはバナナの葉を覆いに使うことが多いですが、ここでは名産のサイザル麻を使っています。アケッソン農園では、木箱を使った発酵を行っています。箱が三段になってるのは、下の箱に移し替える時にカカオ豆が攪拌されることで均一な発酵を行うためです。発酵は、嫌気性のエタノール発酵と好気性の酢酸発酵の2段階のプロセスを踏みます。
その後、約10日間の天日干しをすることで完成します。乾燥を終えた豆からは、馴染みのあるチョコレートの香りが既に感じられます。口に入れてみると、もう鋭い酸味はなく、爽やかな酸味がスーッと鼻を抜けていきます。発酵の過程は、天候によって影響を受けるので、それに合わせた調整が必要になります。そうした知識と経験があって、風味豊かな高品質のカカオ豆が生み出されます。
ひとり旅そして孤独についての考察@ナミブ砂漠
ぼくは、よく一人で旅に出る。一人で旅に出ると言うと、周りの人は「寂しくないの?」と心配してくれる。でも、一人でいることは寂しいことなのだろうか。
どうやら、人は孤独を避けるべきものと考えている。孤独から逃れるように、人は誰かと一緒にいることを強く求める。
しかし、誰かと一緒にいれば孤独から解放されるのだろうか?
きっとそうではない。なぜなら、孤独を感じるのは、人が自分自身を受け入れられていないからである。自分自身との居心地の悪さ。これが孤独の正体である。誰かと一緒にいれば、束の間は自分自身と対峙しなくてよい。でも、これを永遠に続けることはできない。人は、自分自身を騙し続けることはできないから。
思想家のハンナ・アーレントは、孤独(solitude)と、孤絶(isolation)と、孤立(loneliness)を区別していた。
孤独とは、人が内なる自己と対話をしている状態。
孤絶とは、人が何かの作業(仕事)に没頭している状態。
孤立とは、人が自己との対話をできず、またそうした対話を行える友も持たない状態。
多くの人が考える孤独とは、アーレントの言う孤立に近いのではないだろうか。孤立は辛く苦しい。それは、まったく自分自身からも友からも疎外された状態だからである。
自分自身と向き合うことができるなら、そして、その中で内的対話を楽しむことができるなら、孤独は決して寂しいものではない。
普段の生活では、孤絶という状態で仕事に没頭することはあっても、生産性という観点から、孤独の中で自己との対話に没頭する自由はあまり認められていない。
一人旅では、全ての時間が自分に属し、生産性という呪縛から逃れた自由さがある。孤独でいられることは、贅沢なことと言えるのではないだろうか。
@ナミブ砂漠